私の履歴書⑲石田退三(昭和33年9月掲載)

■石田退三(いしだたいぞう)1888 - 1979

豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)社長、元トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の社長・会長・相談役。戦後のトヨタ自動車の建て直しをし、「トヨタ中興の祖」と呼ばれる。

 

1888年(明治21)愛知県知多郡小鈴谷村字大谷(現常滑市)で父、沢田徳三郎、はは、こうの6人兄弟五男として生まれる。家は代々村有数の大百姓で、父は大谷村初代村長にも就任した。

鈴渓高等小学校を卒業して、滋賀県立第一中学(現滋賀県立彦根高等学校)に入学。母方の遠縁にあたる児玉一造家で5年間厄介になる。児玉家の叔母の教育は「貧乏は駄目だ。とにかく出世しなければ」という思想だった。中学4年、5年の時に次の学校を受けるがことごとく失敗する。

 

最初に社会に第一歩を踏み出したのは、滋賀県甲賀郡水口小学校の先生の職であった。その後土山小学校に転任し、代用職員生活は一年ほど続いた。そして、自分の一生の進路を考えるとき、商人になって大いに暴れてやろうと考え、まず商家に丁稚奉公を京都にある合資会社河瀬商店という洋家具展で注文取りに走る。仕事は全部任されたが、その頃が一生を通じて一番苦しい時代であったが、しかし見切りを付け辞める。次は東京の久松町で呉服卸問屋をやっている市橋商店に入るが、我慢できなく1年ほどで辞める。大正4年:名古屋の服部商店に入社する。ここで初めて安定感のある、充実した仕事ができた。

 

 

1927年(昭和2):児玉一造の勧めで豊田紡績に入社。初代大阪出張所長で赴任する。1941年社長利三郎の命により豊田自動織機に赴任する。この会社は機関銃の他に自動車の部品を製造していた。その後終戦までの四年半はがむしゃらに働いた。従業員も多い時は六千人にもなった。1950トヨタ自動車は多くの人員を抱え経営不振になり,人員整理→争議になった。豊田喜一郎社長が退任し、石田が社長に就任した。

 

石田退三の幸運は1.小学校を出て将来の身の振り方を案じているとき→児玉一造が現れ中学教育を終えられた、2.服部商店や豊田へ入社するとき→児玉兄弟の世話になる、3.最悪状態での社長時代→「特需」に恵まれ、逆に最良の年になる、を挙げることができる。

 

 ◎処世訓

経営学などとだいそれた理屈を言う必要はない。わしの信念はただひとつ″最後はゼニを持った奴が勝つ”これだけのことだわね」

 

「商売道なぞというと、いかにも時代遅れのセンスに見られようが、たとえどんな時代にあっても、このことを忘れては経営は成り立たない。武士に武士道がある如く、商人には商売の道がある」

 

 

 (まとめ:パワーポイント20枚、講義45分)

私の履歴書⑱大屋晋三(昭和33年5月掲載)

大屋晋三(おおやしんぞう)1894-1980

日本の経営者、政治家。帝人の社長。戦前の財閥である商社の鈴木商店に入社。帝人の社長を26年間同社の経営を行い、繊維業界のリーダー的企業に育てあげた。政治家としては参議院議員を9年間勤め、吉田茂内閣の商工、大蔵、運輸大臣などを歴任した。一橋大学卒業

 

 1894(明治27群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣(後の明和村大字川俣)に父、央(なかば)母、ツネの間に生まれる、兄姉は3人あったが、生まれて間もなく死んだ。

 1907(明治40)当時の家庭の事情から中学校に通うことは許されなかった。ゆえに書生として住み込み、前橋中学に合格した。

 1912(明治45):尋常高等小学校の代用教員になるが、受験勉強もしたかった

し、また就職先があり次第上京するつもりであったので1年で退職した。東京での職は

日本橋室町の証人役場の筆生であった。そして公証人役場の仕事を終えると、一橋受験

の準備を懸命にやった。

 1914(大正3):一橋を受験し合格となる。

1918(大正7):一橋の四年間が終わり本店が神戸にある、鈴木商店に勤めた。

 *自分の本来の能力を想うままに発揮できる時が来た、と感じた。今までの不遇な環

境の支配を克服脱却し、これまで鬱積していた反発心を爆発させた。意識改革を想った。

 1925(大正14):帝国人絹の岩国工場建設事務所長として赴任した。32歳の時。

彼の終生の事業となった化学繊維工業への第一歩を踏みきった。

 1945年:42年には取締役になり、帝人の社長に就任。

 1947年:第一回参議院議員選挙日本自由党から定員6名の大阪地方区から出馬し

辛うじて第5位で当選する。第二次吉田内閣で商工大臣に就任、第三次吉田内閣で運輸

大臣に就任。

 1956年:帝人社長に復帰。9年間の政治家生命に終止符を打ち、帝人立て直しに復

活する。陣頭指揮で再建を進め、特にテトロンの生産によって、帝人の業績は急速に回

復した。

 

 

 ◎人生に対する一貫した考え方を持つ

  「自分のやったことは、自分で責任を取る。まして自分の犯した過ちや、自分の作

った業に対しては、それに対する償いや責めは自分で果たさねばならぬ」

 

 

(まとめ:パワーポイント21枚、講義30分)

私の履歴書⑰伊藤次郎左衛門(昭和33年3月掲載)

■伊藤次郎左衛門(いとう・じろざえもん)(16代目)1902年~1985

日本の経営者。慶應義塾大学卒業後、父から、家督松坂屋デパートを引き継ぎ16代目「次郎左衛門」を襲名。松坂屋社長また名古屋商工会議所副会頭・会頭として名古屋の産業発展に尽力した。

 

 1902年(明治35):伊藤家の長男として名古屋で生まれる。伊藤家は代々次郎左衛門を襲名し、始祖は祐広、一代目は祐道、二代目は祐基、祖父は祐昌、父は祐民、本人は祐茲(すけしげ)であった。1910年母の死亡が動機で東京に飛び出し、慶応普通部の四年に編入する。

 1933年(昭和8):16代目次郎左衛門を襲名し、松阪屋の社長に就任する。家督を継いでも特に経営方針を改革することなく、鬼頭幸七という番頭(初代専務)に任せきりであった。

1941年(昭和16)名古屋の店が物価違反事件を起こした。当時ある時期の価格以上に店の商品の価格を上げてはいけないという「価格等統制令」(ストップ令)が出ておりその責任を取って、社長を辞任し相談役になる。

 

 1947年:再び社長に返り咲き、大いに店の復興に力を尽くした。昭和28年に名古屋店・東京銀座店の全店復興、31年には静岡店の増築開店、32年には上野店の全館完成と着々と実を上げていった。資本金も昭和22年には5,500万円、2315千万円、2632千万円、さらに48千万円、28年には10億円。31年には20億円に達した。

 

  ◎感銘を受けた人

 1.松方幸次郎

   非常に鋭いと感じる人。人生の後半では大失敗するが、すべてに華がある。 

 2.木本幸吉

   大きな目標を掲げる事で、自分自身に課題を与え、自らを鼓舞するところがあ

   った。

 3.大谷光瑞本願寺    

   本願寺教団のドン。当時本願寺御殿の生活は、百万石の大大名の格式であっ

   た。

 

 

 

  (まとめ:パワーポイント20枚、講義30分)

私の履歴書⑯藤山愛一郎(昭和32年8月掲載)

■藤山愛一郎(ふじやま・あいいちろう)1897年~1985

日本の政治家、経営者。外務大臣経済企画庁長官、藤山コンツェルン二代目。慶応大学法学部中退。父のあとを継ぎ、大日本製糖の社長となり, 44歳の若さで東京商工会議所会頭,日本商工会議所会長に就任した。57年,岸信介首相の強い要請を受けて外相に就任,58年の総選挙で当選し政界に入った。東京出身。

 

1897年(明治30)東京王子の飛鳥山の麓王子製紙の社宅で4人兄弟の長男として生まれる。父は雷太で当時は王子製紙の専務であった。

 

1917年:慶応大学政治科に進み、将来は大学教授になりたいと考えていた。しかし、肋膜炎にかかり学生生活は中途半端で終わった。そして、病が治れば父親の後を継ぎ実業家になろうと考えるようになった。父親は、なまじ中途半端なサラリーマンの苦労などを知るよりか、初めから社長として苦労をした方がためになるとの考えであった。それから10年いろいろ小さな会社をやった。

 

これらの事業を通して、事業を伸ばすには消費者の趣向や流行に合わせた製品を安価な価格で出さなければならないと考えた。そして、技術屋には事業経営の面に一切口出させてはならないと悟った。

 

社会に出るや否や社長としていろいろな仕事をやったが、これらはいずれも見習いの域を出なかった。本格的な事業経営は大日本製糖の社長になってからである。それまでは会社経営といっても、むしろ経営の基礎知識を積む狙いでやらされ、社会学を身に付ける時期でもあった。

1930年:大日本製糖監査役としてはいる、1932年:常務に就任、1934年:社長に就任

 

1957年(昭和32)岸改造内閣外相として入閣する。初の民間人閣僚として注目される。政界入りと同時に会社の役職から手を引く。

愛一郎が政界進出によって持ち株を放出した ことに加え主力事業の製糖業と化学肥料が不振に陥り、日東製紙が事業停止に 追い込まれたことをきっかけとしてグループとしての藤山コンツェルンは解体した。

 

 

(まとめ:パワーポイント28枚、講義45分)

私の履歴書⑮永田雅一(昭和32年5月掲載)

永田雅一(ながた・まさいち)1906年~1985

  日本の実業家、映画プロデューサー、大映社長、プロ野球オーナー。昭和20年代から30年代にかけて、映画界で一世を風靡した映画人である。エネルギーの塊のような男であるが、外見は小柄で色黒である。

 

  1906年(明治39)京都市中京区三条通油小路下がるで、父芳太郎、母紀美の長男として生まれる。生家は染物と友禅の問屋で破竹の勢いであった。彼が三つぐらいの時から家運が傾き、さらに父が友人の借金の保証をして破産の憂き目を見ることになり、借家住まいになった。素封家である永田家がわずか5,6年の間に没落してしまった。

   1925年(大正14)常駐していた旅館の経営者の池永浩久さんの紹介で日本活動写真(後の日活)に庶務の見習いとしてはいる。その後日活争議が勃発するが、その処理において彼は認められ、制作部長・企画部長・総務部長を任せられ、事実上の所長代理になった。

  1934年(昭和9)日活を退社し、第一映画設立する。しかし、第一映画社をつくるも、製作費はかさんだ。いつの間にか十万円から十五万円の借金ができ、やがてジリジリ経済的に追い詰められていった。20本の映画を作り解散(1936年)。

 1936年(昭和1170名の腹心を連れて新興キネマ撮影所所長に移籍する。不振であった新興キネマの再建に当たる。休日出勤と夜間撮影の禁止・ゲテモノ映画に取り組む→キネマ最大のピンチから立ち直る。

 

   1941年(昭和16):戦時中の重要産業統制令で映画会社は3社になる。1942年年大日本映画製作会社(大映)資本金770万円で設立し、社長菊池寛、専務永田雅一で出発する。大映創立三年、菊池社長就任後二年を経て、大映は松竹、東宝をはるかにしのいで業界の第一位にのし上がる。大映の三大路線として、1)長谷川一夫の時代劇、2)京マチ子のお色気、3)三益愛子の母物語が貢献する。

  1947年社長に就任。

  1960年代半ばから日本映画界の急激な斜陽と不振の中で、大映はジリ貧に追い込まれた。原因として、1.ほとんどが製作本位の大作主義、1.「永田ラッパ」と呼ばれる放漫経営、1.大型新人スター不在、が挙げられる。 

  1971年:ロッテオリオンズの売却、日活本社ビルの売却、希望退職者の募集など図るが、12月に破産宣告を受ける。

 

  ◎企業家精神

 「芸術」を作るのではなく、我々は映画事業を経営しているという考え方でやっていく。映画は娯楽「大衆を楽しませる映画」を以て最高の目標としていること、を映画の基本においている。映画産業の成功は、すなわち大衆の心をつかむこと。

 

(まとめ:パワーポイント29枚、講義45分)

私の履歴書⑬堀久作(昭和31年6月掲載)

堀久作(ほりきゅうさく)1900年~1974

 昭和時代の経営者。映画会社日活の元社長。日本活動写真(のちの日活)に入り、昭和20年社長。制作・配給・興業の一環経営体制を復活させ、日活の黄金時代を築く。

 1900年(明治33)東京都上野に生まれる。8才の時父を亡くし、母親一人で育てられる。ささやかな荒物商を営んでいたが、生活は苦しかった。苦学の末大倉高商(現在の東京経済大学)を出た。

 父の遺言に人生における影響を受ける。「お前が世の中に出て、もし食うのに事欠くことがあっても、決して物を質に入れてはならない。質に入れるほど困ったことが起きたら着物でも売ってしまえ。売ってしまって悔しかったら、それ以上のものをつくるように努力しろ。着物でも同じ着るならいいものを着ろ。悪いものは決して着るな。」である。

 卒業後は就職し、事業も起こすが競争が激しく失敗し撤退する。その後松方乙彦(東京瓦斯の常務など企業家として活躍)の秘書になる。松方社長の下映画会社日活の再建に乗り出す。再建策として、1.日活映画のオールトーキー化、2.直営網の拡張、を行い生き返る。黄金時代が続くが、その後ワンマン経営が裏目に出て日活の業績不振で46年社長を退く。

 

 ◎事業哲学

 「私の企業哲学は借入金によってモノを作るときは、必ず良いものを作ろうという ことだ。金を借りて悪いものを作ったら回収がつかない。二つとしてない良いも  の、後で真似の出来ない物をつくること、これが事業の要諦である。中途半端なこ とをやっては駄目である。」

 

 

 (まとめ:パワーポイント10枚、講義30分)

私の履歴書⑫中山均(昭和31年9月掲載)

中山均(なかやまひとし)1886年~1966

 経営者、静岡銀行頭取。早稲田大学卒業後、第百銀行を経て浜松銀行入社する。西遠銀行をはじめとして大小の銀行120行を合併して静岡銀行設立に尽力。

 1886遠州浜松在(現:浜松市三島町)に父誠一、母よしの兄弟5人の真ん中で一人息子として生まれる。父は1883年頃浜松銀行を設立した。

 1908年早稲田大学を卒業すると、父から「人間は学校を出ただけでは駄目だ。誰か偉い人について、みっちり修業しなきゃいかん」と言われ、 金原明善氏に師事。金原氏は天竜川の治水事業、北海道開拓・植林事業など近代日本の発展に活躍した人物であり徹底した合理主義を実践した人である。その後父の経営する浜松銀行に入社する。厳正中立の下、地方産業の育成に務めた。

 静岡県には銀行が150余行あり、規模が小さく競争が激しく経営的に不安であった。故にその後1914年には浜松銀行と西遠銀行の合併、1920年には西遠銀行と資産銀行の合併で遠州銀行になり、さらに静岡三十五銀行と遠州銀行の合併し静岡銀行が設立された。

 

 ◎一生一義主義

   「人間、ひとつの仕事に専念していると、よほどの馬鹿か、異常者でなかったら、自分の打込んでいる仕事に興味を持つようになるものだ。だから私は神様か、天才でもない限り、人は一生一業で貫いた方が、当人のためにも国家のためにもなると固く信じている。」

 

 

  (まとめ:パワーポイント12枚。講演:30分)