私の履歴書⑯藤山愛一郎(昭和32年8月掲載)

■藤山愛一郎(ふじやま・あいいちろう)1897年~1985

日本の政治家、経営者。外務大臣経済企画庁長官、藤山コンツェルン二代目。慶応大学法学部中退。父のあとを継ぎ、大日本製糖の社長となり, 44歳の若さで東京商工会議所会頭,日本商工会議所会長に就任した。57年,岸信介首相の強い要請を受けて外相に就任,58年の総選挙で当選し政界に入った。東京出身。

 

1897年(明治30)東京王子の飛鳥山の麓王子製紙の社宅で4人兄弟の長男として生まれる。父は雷太で当時は王子製紙の専務であった。

 

1917年:慶応大学政治科に進み、将来は大学教授になりたいと考えていた。しかし、肋膜炎にかかり学生生活は中途半端で終わった。そして、病が治れば父親の後を継ぎ実業家になろうと考えるようになった。父親は、なまじ中途半端なサラリーマンの苦労などを知るよりか、初めから社長として苦労をした方がためになるとの考えであった。それから10年いろいろ小さな会社をやった。

 

これらの事業を通して、事業を伸ばすには消費者の趣向や流行に合わせた製品を安価な価格で出さなければならないと考えた。そして、技術屋には事業経営の面に一切口出させてはならないと悟った。

 

社会に出るや否や社長としていろいろな仕事をやったが、これらはいずれも見習いの域を出なかった。本格的な事業経営は大日本製糖の社長になってからである。それまでは会社経営といっても、むしろ経営の基礎知識を積む狙いでやらされ、社会学を身に付ける時期でもあった。

1930年:大日本製糖監査役としてはいる、1932年:常務に就任、1934年:社長に就任

 

1957年(昭和32)岸改造内閣外相として入閣する。初の民間人閣僚として注目される。政界入りと同時に会社の役職から手を引く。

愛一郎が政界進出によって持ち株を放出した ことに加え主力事業の製糖業と化学肥料が不振に陥り、日東製紙が事業停止に 追い込まれたことをきっかけとしてグループとしての藤山コンツェルンは解体した。

 

 

(まとめ:パワーポイント28枚、講義45分)