私の履歴書⑧新関八洲太郎(昭和31年11月掲載)

新関八洲太郎(1897年~1978年)

 大正-昭和時代の経営者。東京高商を卒業後三井物産に入社する。34年に新発足した三井物産の初代社長。昭和53年に死去。

 1897年埼玉県で一人っ子として生まれる。父は埼玉県庁で警察署長であった。小学校時代は全くの意気地なしで、いつも片隅に引っ込んで地面を見つめている生徒であった。中学、高商と通じて不良的な性格に変わっていき、何事においても積極的になっていった。

 高商卒業後山下石炭㈱に入社するが規模も小さく配属された部署に不満があり、炭鉱での生活が嫌になり退職する。そして海外雄飛の夢を持ち三井物産に入社する。フランス・ドイツの生活から一時帰国する。そのあとも平壌・メルボルン・バンコック・バタビア奉天に赴任する。奉天時代から一商社の支店長から起業家に変身し、大農園の経営を行なった。その後日本に帰るがGHQの財閥解体命令で三井物産は解散命令を受け清算会社になった。

 1947年「総合商社」の看板を掲げ、第一物産を設立し社長に就任する。この会社は衣食住の輸入業務に取り組み、リン鉱石の輸入とシイタケの輸出を皮切りに、木材・ビン詰め商品・水産物・油脂・医薬品・ガラスなどを扱った。

 1959年第一物産を中心に旧三井物産系会社が大合同し、新生三井物産が誕生し社長に就任した。

 

 ◎いつまでも将来への夢を描く

 「私はまだ、過去を語る年代でもないと承知している。事実、赤いちゃんちゃんこを着る還暦にはまだそくばくの間があり、いまだに人並み娑婆気も抜けず、将来に少なからず夢を描いていると言った私は、人を頷かせるに足りる処世訓の用意もなければ、駆れた人生観の持ち合わせもない。」

 

 

(まとめ:パワーポイント17枚、講義30分)