私の履歴書⑮永田雅一(昭和32年5月掲載)

永田雅一(ながた・まさいち)1906年~1985

  日本の実業家、映画プロデューサー、大映社長、プロ野球オーナー。昭和20年代から30年代にかけて、映画界で一世を風靡した映画人である。エネルギーの塊のような男であるが、外見は小柄で色黒である。

 

  1906年(明治39)京都市中京区三条通油小路下がるで、父芳太郎、母紀美の長男として生まれる。生家は染物と友禅の問屋で破竹の勢いであった。彼が三つぐらいの時から家運が傾き、さらに父が友人の借金の保証をして破産の憂き目を見ることになり、借家住まいになった。素封家である永田家がわずか5,6年の間に没落してしまった。

   1925年(大正14)常駐していた旅館の経営者の池永浩久さんの紹介で日本活動写真(後の日活)に庶務の見習いとしてはいる。その後日活争議が勃発するが、その処理において彼は認められ、制作部長・企画部長・総務部長を任せられ、事実上の所長代理になった。

  1934年(昭和9)日活を退社し、第一映画設立する。しかし、第一映画社をつくるも、製作費はかさんだ。いつの間にか十万円から十五万円の借金ができ、やがてジリジリ経済的に追い詰められていった。20本の映画を作り解散(1936年)。

 1936年(昭和1170名の腹心を連れて新興キネマ撮影所所長に移籍する。不振であった新興キネマの再建に当たる。休日出勤と夜間撮影の禁止・ゲテモノ映画に取り組む→キネマ最大のピンチから立ち直る。

 

   1941年(昭和16):戦時中の重要産業統制令で映画会社は3社になる。1942年年大日本映画製作会社(大映)資本金770万円で設立し、社長菊池寛、専務永田雅一で出発する。大映創立三年、菊池社長就任後二年を経て、大映は松竹、東宝をはるかにしのいで業界の第一位にのし上がる。大映の三大路線として、1)長谷川一夫の時代劇、2)京マチ子のお色気、3)三益愛子の母物語が貢献する。

  1947年社長に就任。

  1960年代半ばから日本映画界の急激な斜陽と不振の中で、大映はジリ貧に追い込まれた。原因として、1.ほとんどが製作本位の大作主義、1.「永田ラッパ」と呼ばれる放漫経営、1.大型新人スター不在、が挙げられる。 

  1971年:ロッテオリオンズの売却、日活本社ビルの売却、希望退職者の募集など図るが、12月に破産宣告を受ける。

 

  ◎企業家精神

 「芸術」を作るのではなく、我々は映画事業を経営しているという考え方でやっていく。映画は娯楽「大衆を楽しませる映画」を以て最高の目標としていること、を映画の基本においている。映画産業の成功は、すなわち大衆の心をつかむこと。

 

(まとめ:パワーポイント29枚、講義45分)