私の履歴書⑩山崎種二(昭和31年12月掲載)

■山崎 種二(やまざき たねじ)(1893-1983

日本相場師実業家教育家。米問屋の丁稚からスタートし、米相場・株式相場で財を成す。山種証券株式会社(現SMBCフレンド証券株式会社)の創業者。

 1893年父宇太郎、母りんの三男五女の長男として、群馬県北甘楽郡岩平村大字坂口(現在高碕市)に生まれる。家は貧乏のどん底で、彼は米作や養蚕を手伝い、一年の半分しか学校に行けなかった。 

 岩平村尋常小学校を卒業後深川の回米問屋「山繁商店」の小僧になる。そこでは倉へ入るコメを数えたり、出るコメを調べたりする倉庫番をやり、だれよりも一生懸命働いた。 

「山繁の種さん」といえば、問屋仲間でも一角の「目利き」として通るようになった。また、彼は「米相場」についても、堅実な現物売買に終始し、持ち前の計算力と記憶力に、粘り強さと度胸がうまく溶け込んで、相場師としての素質に磨きがかけられた。

1924(大正14):関東大震災の後、山繁商店の主人は廃業して、これを機に独立し、

資本金三万円で回米問屋の店開きをする。当初は相場に資金をつぎ込み赤字経営で苦しかった。新倉氏の助言で派手に儲けるのでなく、わずかな委託手数料、細かい日歩計算による地味な儲けを行う経営の基礎を「サヤトリ商法」に変えていった。2,3年と地道なブローカー商法を続けていくうちに、巨額の財力を付け、経営の基礎も盤石になった。

 さらに、米の豊作においては倉庫さえ確保していたら大もうけできる、米を買うより、まず倉庫を借りた方がいい、と考え倉庫料を前払いし、東京と横浜の空いている倉庫を買占めした。これで大成功した。

1944(昭和19):山崎証券株式会社に商号変更

1965(昭和40):山種証券株式会社に商号(社名)変更

 

*山崎種二は大成功を収めた数少ない相場師の1人である。しかし、彼の創設した山種証券は昨今の競争に破れ、もう今はSMBCフレンド証券という名前になってしまっている。

 

◎『働き一両・考え五両』

*祖父兵衛の言葉「考え五両、働き一両。種ニよ、しっかりやってくれ」

   頭を使って仕事をしなさい。自分の考えを仕事の中に生かしなさい。

  真面目に働くことは商売の基本だが、効率の悪い仕事をただ一生懸命続けても稼ぎは

よくならない。大きく儲かる方法を考えることの価値は大きいということ

 

(まとめ:パワーポイント26枚、講義30分)